昭和40年12月19日 特別奉修委員



 その人の信心の中味というのは、その人の信心の祈りの中味と言う事も言えると思うんですね。その人の信心の中味というもの、その人の祈りの、私は中味が深ければ、その人の信心は深いのであり、広ければその人の信心は広いのである。そんな風に感じます。祈りというても、祈りの言葉というだけで、その只実感のない祈りでは、勿論それはまあ祈りではならないと思うですがね。
 勿論、心から実感して祈れれることだと思うですね。集金に例えば参ります、どうぞあの集金が都合よういきます様にじゃいかん、相手の方のお繰り合わせを願わにゃいかんといった様な風に教えられたんですね。私共はやはりそうなんです。先方の方がお繰り合わせ頂いとかななければ、払おうと思ても払えませんものね。そこで一寸例えば、祈りが一寸大きくなるわけですよね。
 自分のことだけ、自分の金さえ取りゃよかとこういう様な祈りから、チョットその自分の直接関係のあるその人の上のことも祈れれるというのですから、それでよくよく考えて見ると、自分のその都合のよいために人のことを祈っとる。そんなことじゃ相すまんというところから、又、本当にお詫びなんかも真剣にでけると思うですよね。それでもやはり祈らにゃおれんと段々なってくる時に、それが、中味ということになってくるのではないかとこう思うですね。
 皆んなが隣近所のことから、信者同志のことからも 本当に私共あの北京から引き揚げて参りましてからあのの時分の、そのいわゆる手帳ですねお届け帖なんです。それには自分のお得意さんにならっしゃるところは、もう神様とご神縁がでけたとこう思うわけなんですね。ですからここに一人あなたの信者氏子がですね、一人増えるきっかけを作って頂いたことをまずお礼申し上げて、そしてこの人のです繁盛。
 この人の事の信心をお願いする。入信のおかげ、そして何か機会があって集金に行ってから「かんどう?  」やらですね。そげん時には強引にあんたも参んなさいというて引っ張って参るわけなんですよね。お繰り合わせを頂かにゃいかんち。それが、たいしてものを言うたというほどしのものでないですけれども、やはり、そういう様な信心さして頂いとりました。
 昨夜、お月次祭をあすこで装束付けながら、秋永先生がご承知の様に、ご造営が段々おかげ頂いとりますが、あれの大体、カラー鉄板で屋根はふく様になっていたんですね。ところが、ご神意を頂かれましたら銅版がよかろうということだったんです。ところが、もうその頃から銅板の上がるということが、そのものすごくあがるんですね。もうちっとあがりゃ何百万違うわけなんですよ。
 そのカラー鉄板から、銅版にするだけのが、昨日の話しなんか、もうそれこそ大変な大変な値上がり様なんですね。それが、そのどういうところに原因をしておるかというとですね。ベトナムの戦々のそれに関わるそうです。日本から銅板がやっぱり薬きょうになるそうです。鉄砲玉を作るその材料になるわけなんですね。銅板が。だもんですから、もう本当にものすごい。
 先日から、熊本の業者の方が見えて、その話があったんですけども、そん時は、まあだ安かったんですけどもね。今はまあだ上がっとるんです。いよいよ上がってるわけなんです。それで、その神様は流しておく様に頂いたですから、その話を一応流した形にしておりますけれども、それを、銅板葺きということを断念しとるというわけではありません。ですから、そんなわけでございましたから。
 昨日もその話を秋永先生しておられましたんですけども、ホホー、ベトナムのそれに大体銅版というのは、小豆の相場の様なもんですね。もうそれこそ上がり下がりが非情にひどいそうですね。ですから例えばあちらの方が、段々戦争がやんで平和にどもなりゃ、ガターッと落ちてしまうだろうと言う訳なんです。それで私が言うんですそりゃどうでんこうでんいっちょそりゃベトナム戦々がいっちょ停戦になる様なですね。
 おかげをいっちょ願わにゃいかんばのち言う訳です。いわゆる本当の意味で世界真の平和を是は自分の身に火が付いて来た。ね 世界の動乱と言う事が戦争と言う事がですたい。ね も本当に自分達のことに直接この関係がでけて来たんです。そこでどうでも世界の真の平和ば祈らにゃいかんのていうて笑ったことでしたけれども、笑いながら、本当にそうだと思うんですよね。
 皆さんどうでしょうか、世界真の平和を祈っておられるでしょうか、本気でそれがです、自分の集金に行かなければならない、そういう関わり合がです。やはり向こうがお繰り合わせを頂かなければ、こっちにもらわれない。そんなら相手のことも祈らなければおられない。私はこういう時にです。私は何時も申します様に、いうことだけならどげなこつでん祈られる。
 世界のいわゆる、金光様の様に総氏子のことを総助かりですから願われる。世界真の平和を祈れるけれどもです。例えていうなら、どうぞ皇室のいや栄えを願い、天皇陛下、皇后陛下両陛下のご健康を祈らせてもらうことといいながら、天長節すら旗立てるのを忘れとるぐらいなことで、神様に通うはずがなかて私が言うんです。言うだけならどげなこつでん言える、本当に実感としてです。
 天皇陛下のことを朝夕に、例えば祈れれ思えておるならば、天皇陛下のいわゆるお誕生日ぐらい忘れられるはずはなかというわけです。ですから、本当に自分の実感というものが、そのまま祈りにならなければならない。その人の信心の内容は、その人の祈りの内容によることだ と、自分が実感して、例えば祈っておることがそのことが、あなたの信心の内容程度なのだと。
 果たして、自分の周囲の人達のことを、どのくらい祈っとるだろうか、只、自分のことだけ、いや自分に直接関係のあることだけしか祈ってないに致しましてもです。こういう、ひとつのきっかけを頂いてです。いわゆる、ベトナム戦々にからみが関係がでけたわけなんですよ。ですから、これはどうでも本当の意味で、世界真の平和を祈らなければおられなくなってきたわけなんです。
 そして、只、自分のことに関係があるから祈っておる。そこに、相すまんところですね。お詫びをさして頂いてもです、私は、世界真の平和を本気で祈らなければならないという風に感じるのです。どうぞお互いの祈りがです。今日も、朝国武さんが頂いておられます様にです。息子さんの商売のことお願いしてあった。ところが、都合が悪くてそのままになって、又そのまま話が進んでいない、それでお互いの信心をね。
 神様も、ちっとましなおかげをくださろうとしておるとですばい、ああたここげんこげんくらいな魚でよかと思いよろばってん、神様はこういう大きな魚を下さろうとしておるんですよ。ためにはね、今の信心ではちった浅かとこういうわけなんです。浅いところに大きな魚が住むはずがなか。もちっと信心を深めなさいという様な、ご理解を頂いとられましたですね、という様にです。
 私共が、本当に、もっとましなおかげ頂きたいと思うならばです。広いがよかならもちっと範囲を広なさにゃいかん、深いがよいなら、もちっと信心を深めていかなければいけない。そしてそこに住むところの魚、浅い信心して、大きな魚を求めておる様な、私共は信心では、それはなるほどご造営のことを、皆さんが、祈られんはずはないのです、けれどもそれがですね。
 実感が実感としてどこまでおかげを頂いてから、それが祈りになっておるが、修行の上に現れておるか、ということを思わせて頂いてですたい。いよいよ、椛目をあげて本気で、世界真の平和を祈らなければならない。それは、もううつろなものではない、もう充実しておる。ある意味では、何故って直接椛目に関係があるんだもの、もう、あちらが停戦ということになったら。
 それこそガタッと値段が落ちる事は、火を見るよに明らかなんですから、それこそ何百万というお金が違ってくるんだもの、こりゃあ、本腰を入れにゃという様に、内容に実感がでけてきたんですから。けれどもそれとても自分のことのために、この事を祈っておるのですから、そこんところは本気で詫びていくうちにです、段々世界真の平和といった様な事を、本当に心から祈れれる様な信心が、段々育っていくのじゃないでしょうかね。    どうぞおかげを頂きますように。